元政治学者の どこ吹く風

アカデミックな政治学者には語れない日本政治の表と裏を元政治学者が大胆に論じ、将来の日本の政局を予測する。

音楽の政治学

ちょっと情報を集めていたら、産経新聞の「音楽の政治学」という特集を見つけた。
興味のある人がいるかもしれないので、ここにリンク貼っておきます。

音楽の政治学

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政治と音楽は両極端に位置するようでありながら、どこかでつながっているようなところがある。
たとえば、好き嫌いで政治をやってはいけないが、好き嫌いなしに音楽をやってはいけない。
好き嫌いだけで音楽を論じられても面白くないが、好き嫌い抜きで政治を論じられるのも面白くない。
善悪や正義で音楽を語るのはとんでもないことだろうが、善悪や正義だけで政治を語るのも、善悪や正義抜きで政治を語るのもとんでもないことだろう。

僕は音楽の政治化には断固反対するし、政治に絡んだ音楽も好きではない。
生活や人生のいろいろな場面で音楽は生まれる。政治の場面も例外ではない。だから、政治の場面で生まれる音楽を否定するつもりは毛頭無い。だが、音楽が政治の道具化される傾向には強く抵抗する。
なんであれ、音楽がなにかの道具にされたときには聞いていて面白くない。やはり、音楽それ自体を楽しみたい。数少ない音楽体験のなかで、僕が音楽の芸術性を深く感じた瞬間とは、ほかのすべてを忘れるほどに、音楽をそのものとして感じたときだった。

動機が政治だとか恋愛だとか言うことが問題なのではない。表現されるのが歓喜だったり悲しみだったりすることも問題なのではない。表現され産み出される作品性の中に芸術性は宿るのだと思う。