元政治学者の どこ吹く風

アカデミックな政治学者には語れない日本政治の表と裏を元政治学者が大胆に論じ、将来の日本の政局を予測する。

料理〜干物の効用

今年から少し暇になったのと健康上の理由から、朝と晩はほぼ必ず自分で料理をするように心がけている。
週に一度、野菜やその他の食材が宅配されるので、届いた食材を眺めながらメニューを決めて料理する。
最近凝っているのが、干物。肉はあまり食わないようにしている。肉は、鶏か豚をせいぜい週1回しか食わない。牛肉はめったに食わない。
やっぱり日本人は干物がいい。良質のアミノ酸も豊富だし、貴重なタンパク源だ。しかもいろんな種類の干物がある。最近は毎日、干物を2枚以上は食べている。冷凍技術の発達のおかげで、新鮮な干物がいつでも食べられるようになった。冷凍庫の中は常に干物でいっぱいだ。
あと、欠かせないのが納豆と鶏卵。それから季節の野菜類。あとはおいしいご飯と味噌汁があれば言うことない。

日本の音楽大学(その1)

いまから10年前、某国立大学法学部の助手の職を辞し、某私立音楽大学の専任講師になった。僕の30代の10年間のエネルギーのほとんどを、この音大に費やすことになるとは夢にも思わなかった。


赴任早々びっくりしたことがいくつかある。
1991年(平成3年)に、いわゆる大学設置基準が大綱化された。大綱化以降、各大学ではさまざまな改革が進展した。ところで、僕がこの音大に赴任したのが1996年(平成8年)4月。大綱化から5年経っているにもかかわらず、カリキュラム改革をはじめ必要な改革はほとんど進んでおらず、旧態依然としていた。
通年制は維持され、学生による科目選択の余地はほとんど存在しない。大綱化の主旨の一つに学生による履修科目の自由選択の余地の拡大があったが、専門の選択科目の数は少なく、選択科目である一般教養科目ですら事実上のクラス指定となっており、自由選択の余地はまったく存在しなかった。例えばピアノ科の1年生の全員(約100名)が通年の政治学を「履修しなければならない」状況に置かれていた。そして、ピアノ科以外の2年生は、通年の法学を履修しなければならない。授業を聞くほうも苦痛だが、教えるほうも苦痛だ。お互いにとってよいことは何も無い。
まさかピアノ専攻生のすべてが政治学に興味を持っているはずは無いし、通年で教養政治学を教える必然性もない。選択科目なのに、なぜピアノ科の一年生ばかりが履修するのだろうと最初びっくりしたのだが、事情を聞いてようやく理解できた。要するに他の科目は時間割上、履修できないようになっていたのだ。選択科目すら選択できない。専門の選択科目もほとんど無い。ここは高校か専門学校かと思った。断じて大学ではない!・・・と。


それから10年。。。科目の種類の豊富さ、学生のニーズに応じた自由選択の度合い、それぞれの専攻の専門性の高さと充実度、どれをとっても日本で一番充実した音楽大学の一つになっている。
大学を卒業するためには124単位以上の取得が必要だが、本学の学生は平均して160単位近くを自ら進んで履修し、かつ単位取得して卒業していく。
10年前の学生は4年生にもなると履修する授業がなくて暇そうにしていたのに、現在の学生は4年生になっても忙しく充実した科目履修をしている。


日本の音楽大学の歴史や現状などについて、体験談も含め、思いつくままに勝手なコメントを今後も書いていこうと思っている。

教師という人生

僕が担当しているある授業の最後に必ず見せる映画がある。ある高校音楽教師の生涯を描いた作品だ。知っている人も多いと思うが、何らかの形で教える仕事に就こうと思っている音大生なら必ず見ておくべき映画の一つである。

陽のあたる教室 [DVD]

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Web2.0

ブログを始めたのにはわけがある。


実は個人のホームページサイト自体はすでに1999年に開設していたのだが、職場のことで頭がいっぱいで更新もできず放置しているうちにプロバイダの都合で消滅してしまっていた。
その後は、ネットワーク関係と言えば、職場のWebサイト構築、グループウェア構築、コンピュータ教室整備、サーバー増強とネットワークのインフラ整備のことしか頭になかった。個人的には、仕事の書類作成やデータ作成以外には、ネット検索するか、ストレス解消と気晴らしでチャットするか程度しかできなかった。


昨年あたりからようやく自分の時間が取れるようになってきたのだが、それでも自分の仕事中心に頭を切り替えるのには時間がかかった。身体もだいぶ酷使していたので、昨年からは、体調を回復することを最優先に、あまり余計なことはせずに休めるときは可能な限りなにもせずに休むようにしていた。だいぶリハビリも進み、身体に余裕ができたのでスポーツジムにも通い始めた。エアロバイクをこいでいる1時間ほどの間を利用して、新書本を読むようになった。


そこで出会った一冊がこの本だった。

ネットワーク関係の本もすっかり読まずにいたのだが、恥ずかしながら本書を読んでようやく最近のネット界の変化をすっきりと理解することができた。その後、Web2.0についてはブームに乗っていくつかの本が出ているが、現在起きている変化をきちんと理解するには、まず本書を読むべきだろうと思われる。


ブログといえば、ただの日記の公開、せいぜい自己満足的な自己主張の類だとやや偏見を持って眺めていたので、正直なところあまり興味がなかった。
しかし、本書を読むことで、Web2.0の発想が革命的なものだと気づいた。


Web2.0が、思考の外部化であり、脳の外部化であること。さらに外部化された自らの思考が「ネット社会」というフィルターを通って再び自分の脳内を循環する。もちろん、その循環が必ず正の循環になるとは限らない。負の循環にもなりうるし、正の循環にもなりうる。ともあれ、思考の外部化と「社会化された」情報の内部化のプロセス自体が革命的に進化し始めているという感触は、僕にも確かに実感できる。


インサイドアウト&アウトサイドイン」の思考プロセスとでも言おうか。自己の脳内をネット社会にさらすこと自体、意味の無いことではないと思うようになったのは事実である。
思考のオープンソース化プロジェクトの一端に自分も関わってみようというのが動機付けの一つになっている。


大げさな言い方ではないと思うが、出版というプロセスを通じなくても学術的交流は可能になってきている。業績のために出版するということ以外に出版の目的が残るとすれば、おそらくアクセシビリティだけではないだろうか。ネットワーク上の情報へのアクセス手段をもたない(もしくは、アクセス困難な)人にとっては書籍というメディアは依然として貴重であるし、いろいろあるメディアの一つとして出版という手段は残り続けることは疑いない。ただし確実に言えることは、出版という手段を通じなくても知の交流は100%可能になってきているということだ。